被爆者からのメッセージ

2006年11月17日[イタリア・ローマ]
ノーベル平和賞受賞者世界サミットでのスピーチ(仮訳 原文は英語)

平和市長会議会長・広島市長 秋葉忠利

このように権威ある集まりで話をする機会を与えて頂いたことは、私にとって大いなる名誉であると共に喜びでもあります。私は、今年9月にオスロのノーベル平和センターを訪問しました。その結果、本日ここにお集まりの皆様お一人お一人が成し遂げられた素晴らしい功績に対して、これまで以上の敬意を持つに至りました。

私は今、非常に謙虚な気持ちでここに立っています。にもかかわらず、敢えて皆様にお話をさせて頂くのは、原爆によって生き残った方々、すなわち「被爆者」の始めた仕事を実らせるため、私の力の及ぶ限り全ての試みを実行したいという固い決意を持っているからです。

私が今ここにいるのは、石田明という名の一人の被爆者に縁るところが大きいと感じています。氏は、被爆者であるだけではなく、教師であり、詩人、そして政治活動家でもありました。彼こそ、被爆者のメッセージ、そして生き残ったことの意味を体現し尽した人でした。

石田先生は1928年に生れ、あの運命の日1945年8月6日には、休暇中の17歳の召集兵として、路面電車の中で被爆しました。その結果、放射能の影響による多くの疾病に何十年も苦しんだ後、2003年に亡くなられました。

被爆後一月近く経って、一緒に被爆したお兄さんが亡くなり、その後彼は約3週間死線を彷徨い、さらに1年間急性症状と闘いました。石田先生が回復したのは、母の我が子を何としても死なせてはならない、という強い信念に他ならないと石田先生は語っています。核兵器のない未来を考えるとき、我々は石田先生と彼の母親に深く感謝しなければなりません。なぜなら先生こそ、生き残る上において、また被爆体験の意味を考える上において、愛の果す役割に焦点を合わせた人だからです。

放射線による疾病に苦しんだ石田先生のつらい経験から、私たちは今日でも多くを学ぶことが出来ます。氏の通院記録には、白内障から数種類のガンに至るまで、放射線の典型的な影響である病状が記されています。石田先生は、日本政府を相手に裁判を起こし、白内障が被爆の影響によるものであることを公式に認めさせました。こうした活動を通して被爆者の病気をより科学的・客観的に調査する道を開きました。しかし、石田先生も苦しんだ放射能の影響は未だ完全に解明されていないことを、申し添えておかなければなりません。1945年の放射能の影響により、今日でも被爆者の間でガンの発症が見られるメカニズムは、最近になってようやく解明されつつあります。専門家たちの多くは、60年前に破壊された幹細胞が、様々な種類のガンをはじめ、被爆者を苦しめる疾患の主要原因であると確信しています。

その後、石田先生は教師となり、被爆教師の会を結成しました。この団体は、反核運動において知的なリーダーシップを発揮しました。また氏は、19年の間、県会議員として活躍し、同時に多数の著書を世に出すと共に詩人としての業績に賞が与えられるなどの活動で知られています。

私は、被爆者のための活動そして平和実現のための仕事を、石田先生と共に行う幸運に恵まれました。中でも思い出の深い試みは、在外被爆者への医療支援プロジェクトです。石田先生は、様々な方法で広島から和解と平和のメッセージを送る上での、指導的かつ創造的な力でした。先生は、我々が平和宣言やその他の手段で被爆者のメッセージを理解し、形作る上で大きな貢献をしてくれました。

また石田先生は、多様な被爆者団体を組織しまとめる上においても素晴らしい才能を発揮されました。もし、今先生が健在であれば、我々を支援しともに核兵器廃絶に向けて精力的に活動して下さっているはずです。先生の不在をこよなく残念に思っています。

被爆者の平均年齢が73歳を超え、被爆者の数も急激に減少していますが、彼らは個人であれ集団であれ大変大きな力を持っています。それは、彼らこそ、地獄絵そのままの、そしてこんなことは二度と起きて欲しくないと私たちが願うこの世の終わりを、現実に体験しているからです。比較的恵まれた町で穏やかな生活を送っていた彼らは、一瞬にして、閃光そして轟音と共に、想像しがたい痛み、闇、炎、黒い雨を伴う混乱の世界に投げ出されたのです。多くの被爆者が、この地獄から生きて帰って来たこと、それも、地獄の惨状がいかなるものであったかを伝え、人類と核兵器は絶対に共存できないのだと警告できる能力並びに意志を持って生き延びてくれたことこそ正に奇跡以外の何者でもありません。私は、多くの被爆者がこうした使命故にこそ生き残ることになったに違いないと確信しています。

被爆者は自ら進んで選択する気持はなかったにしろ、この使命を受け入れなければならないことを悟りました。それは、他の誰にもこの責任を果すことが出来なかったからです。加えてその後、被爆者が、自らの意志と良心に基いてこの責任を生涯の使命に転換するに至ったことに、心から感謝したいと思います。

1999年の平和宣言の中で、私は被爆者が残した3つの大きな贈り物に言及しています。その平和宣言の部分を読ませて頂きます。

「一つ目は、原爆のもたらした地獄の惨苦や絶望を乗り越えて、人間であり続けた事実です。若い世代の皆さんには、高齢者の被爆者の多くが、被爆時には皆さんと同じ年ごろだったことを心に留めていただきたいのです。家族も学校も街も一瞬にして消え去り、死屍累々たる瓦礫の中、生死の間をさまよい、死を選んだとしてもだれにも非難できないような状況下にあって、それでも生を選び人間であり続けた意志と勇気を、共に胸に刻みたいと思います。
 二つ目は、核兵器の使用を阻止したことです。紛争や戦争の度に、核兵器を使うべしという声が必ず起こります。しかし、自らの体験を世界に伝え、核兵器の使用が人類の破滅と同義であり、究極の悪であることを訴え続け、二度と過ちを繰り返さぬと誓った被爆者たちの意志の力によって、これまでの間、人類は三度目の愚行を犯さなかったのです。だからこそ私たちの、そして若い世代の皆さんの未来への可能性が残されたのです。
 三つ目は、原爆死没者慰霊碑に刻まれ日本国憲法に凝縮された「新しい」世界の考え方を提示し実行してきたことです。復讐や敵対という人類滅亡につながる道を選ばなかったのです。」

私がここで述べた「新しい」世界観とは、アルバート・アインシュタイン博士が「原子の力が解放されたことで全てが変わってしまったが、唯一変らないのは我々の考え方である」と述べたときに願った新しい考え方です。この新しい考え方が一番端的に現れているのは、「他の誰にもこんな思いをさせてはならない。」という被爆者の言葉です。この言葉そのものはそれほど革命的ではないかも知れません。しかし、「他の誰にも」という中には、ハリー・トルーマン大統領など原子爆弾投下を決定した人たち、ロバート・オッペンハイマーをはじめ原子爆弾開発に携わった科学者、また、実際に原子爆弾を投下したポール・ティベッツと他の乗組員などが含まれていることを理解して頂ければ、この言葉が如何に画期的なものであるかが分るはずです。この言葉、そしてどのようなものであれ核の惨禍を二度と繰り返してはならないという被爆者の願いからは、現実問題として、報復の可能性が生まれる余地などありません。これが、核兵器は全人類への脅威だと直ちに直観した被爆者の経験から生れた、非暴力と人類愛という被爆者の哲学なのです。このように被爆者のメッセージは余りにも革命的であるため、未だ多くの人々に充分に理解されてもいませんし、咀嚼されてもいないのです。

とは言え、これが「ヒロシマの心」です。すなわち、人類が生き延びることは、いかなる個人的な苦しみや不正義、そして憎しみや報復したいという願望よりも重要であるという信念です。そしてこの結論こそ、被爆者が体験した苦痛や恐怖に照らして、唯一至当な考え方であると私は信じています。核兵器の発明は、我々人類が、お互い同士殺しあうことによって問題を解決できなくなったことを意味します。我々は、対話や合意、条約そして法の支配によって紛争を解決する方法を見つけなければなりません。これこそ被爆者が我々に訴え続けてきたことなのです。

このために、被爆者はどのようなグループであってもその求めに応じ世界各国に出掛けて体験を語り続けてきました。広島では、ほぼ毎日被爆体験が語られています。より活動的な被爆者の中には何十年もの間、月平均33回、被爆体験を話している方もいます。その上、彼女は自分の被爆体験を、大いなる力を持って感情に訴え、そして現在の社会情勢とも直接関連付けることに成功しています。皆様の中に、真にトラウマとなるような経験をされその経験を語ったことのある方がいらっしゃれば、私が、如何に人知を超えた報告をしているか分って頂けると思います。このようなレベルで自らの心をコントロールし、犠牲を払える力をお持ちの方は、本当に稀な存在です。だからこそ、これほど多くの被爆者がこうした活動を続けていることこそ真に奇跡なのです。

残念ながら、こうした被爆者の懸命の努力にもかかわらず、人類は彼らのメッセージを十分に吸収しているとは言えません。事実、戦争や暴力という風がこの地球上に再び災いをもたらすという歴史的時点に到達してしまっています。被爆者は私たちの運命を心から心配しています。被爆者の多くは、冷戦中のいかなる時よりも、近い未来に核兵器が再び使用される可能性が高いと信じています。テロに対する戦争と呼ばれる状況では、抑止力は何の意味も持ちません。当然、米国の核兵器産業は、核兵器をより「使いやすく」するため懸命の努力を続けています。北朝鮮やイラクなど多くの国は核兵器を持とうとしています。また一方では、アル・カイダや他の非国家組織が核保有を模索しており、あるいは、情報によっては既に所有しているとも言われています。我々はどうすれば自爆を抑止することができるのでしょうか。

こうした危機的状況を踏まえ、広島・長崎両市は、1982年に設立した平和市長会議というNGOとともに、2003年に核兵器廃絶のための緊急行動を開始しました。2004年には、19都市の市長、副市長を含む27名の市長代表団を編成して、ニューヨークの国連本部で開催されたNPT再検討会議準備委員会に出席しました。さらに、2005年には、51名の市長を含む167名の市長代表団を編成してNPT再検討会議に出席するとともに、アナン事務総長の出席のもと、市長代表団会議を開催しました。2010年までの核兵器禁止条約の発効及び2020年までの核兵器全廃を目指す計画を「2020ビジョン」と呼んでいますが、このビジョンは、これまでに大変多くの支持を得てきました。

本年7月には、国際司法裁判所の「全ての国家には、全ての局面において核軍縮につながる交渉を、誠実に行い完了させる義務がある」という勧告的意見から10周年を迎えました。文明社会であれば、この言葉によって核兵器の存在は終焉を告げたはずです。この法的義務のどの部分が核保有国には理解できなかったのでしょうか。また私たちはなぜ核保有国がその義務を無視することを許してきたのでしょうか。核保有国は明らかに法廷侮辱罪を犯しています。誰がそのことについて憤っているのでしょう。

こうした疑問に誠実な回答がなされるよう、平和市長会議は2020ビジョンの第II期の取組みを開始しました。

私たちはこれを「Good Faith Challenge(誠実な交渉義務キャンペーン)」と呼んでいますが、このキャンペーンでは、すべての人、特に国家に対して、全ての国家は核軍縮を完全に成し遂げるため誠実に交渉する法的義務があるという国際司法裁判所の勧告を遵守するためにあらゆる努力を行うことを求めています。

合わせて平和市長会議は、「誠実な交渉義務キャンペーン」の一環として、「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトを立ち上げました。「UCANT」とも呼ばれるこのプロジェクトは、都市が国家の人質であるという考え方に対抗して都市が叛乱を起すことを助けようとしています。私たちは、全ての核保有国から、都市を核兵器の攻撃目標にしないという能動的な確証を求めます。こうした活動を通して、現在、都市が攻撃目標となっており、また国際司法裁判所によれば、こうした脅威さえも戦争犯罪であるという事実を市長や市民、国政レベルの意思決定者に気付いて貰おうとしています。

ここ最近、我々は、この「UCANT」プロジェクトの幅をさらに広げようとしています。都市を核兵器の攻撃目標にしてはいけないという議論を通して、いかなる理由であれ、いかなる兵器を使ってでも都市を攻撃すること自体が、恐らく戦争犯罪なのだという認識を持つに至ったのです。ちょうど、子供やバーで乱暴をする酔っ払いに言い聞かせるのと同じように、政府や軍隊そしてテロリストたちに、都市として、喧嘩は都市の外でするように言い渡す時期が来たと感じています。無人島や砂漠を探して、そこで彼らの力比べをして貰うことも恐らく可能です。再度私たちが認識しなくてはならない真実は、都市には戦争や暴力とはどのような関係も持ちたくない非戦闘員が圧倒的な多数派として住んでいるということです。都市を爆撃したり、毒や放射能やクラスター爆弾などで汚染したりする人間そして組織は、国際司法裁判所において戦争犯罪の罪で裁かれるべきです。非常にもろい今日の都市は、このようなレベルの旧態然とした蛮行を受け入れることはできないというのが単純な事実なのです。

私は、この都市によるキャンペーンが、世界の政治的環境を変えられると確信しています。何故、私たちが確信を持っているのかという多くの理由の内、三つを紹介します。最初の理由は、こうした取組みに世界中の市長が参加しつつあることです。2003年に2020ビジョンキャンペーンを始めた当時、平和市長会議の加盟都市数は500前後でしたが、この3年間に、(グローバル・セキュリティ・インスティチュートの)ジョナサン・グラノフ氏が述べたように約3倍の1,500以上に増えました。二つ目は、多くの組織、ここにも出席しておられるNGO、そして多くの政府が我々と共に活動していることです。この平和市長会議のプロジェクトが、今年6月、人口3万人以上の都市1,139が加盟している全米市長会議の年次総会において、全会一致で採択された決議により明確に支持を受けたということがその好例です。

この決議は、中国とロシアに対して、米国のどの都市も攻撃目標になっていない保障を与えるよう求めています。また、米国政府に対しても、これら二つの国の都市を攻撃目標としていないという保障を与えるよう要求しています。国家の防衛問題に都市が介入する有効性を懸念する方もおられると思いますが、まさにそれこそ我々の訴えたいポイントなのです。

どの都市でも市長には、市長が公僕として仕える市民の生命や財産を守る義務があります。市長が果たすべきこの神聖な義務の遂行を国家が妨害する場合、市長は声を上げざるを得ないのです。市民の力によって、我々は目的を達成することが出来るのです。

三つ目は、私たちが世界の大多数の市民の気持を代弁しているという点です。市民のみならず、国連加盟国の中の大多数の国も、地球上から核兵器を廃絶したいと望んでいます。しかし、地球上に未だ核兵器が存在し続けている理由は、この「気持」が未だ「気持」の段階で止まっていて、明確かつシャープな世界の総意としての形を持っていないからです。我々はこうした状況を変えていく必要があります。

広島市、長崎市、そして平和市長会議は、できる限りの活動を行っていますが、それだけでは充分ではありません。市民の意識に充分に浸透しているとはまだ言えませんし、核兵器に対する拒否反応も未だ十分には強くありません。また、核保有国の指導者たちにも私たちが望むほどの影響を与えてはいません。

そこで、皆様にお願いがあります。ここにお集まりの皆様は、素晴らしい人脈、マスコミとのつながりなど平和市長会議よりもはるかに強力な手段を持っておられます。その皆様の力が必要であることを強調してもし過ぎることはありません。しかも、今直ぐ必要なのです。今後1、2年のうちに核兵器を使用しようとする政治家がいなくなるような政治的機運を作りださなくてはなりません。こうした考え方に賛同いただける方は、是非私にご一報下さい。我々のキャンペーンへの最も有効な協力方法についてお話をさせて頂きたいと思います。

2003年の広島市の平和宣言で述べたことは、ここにいらっしゃる皆様、政治や宗教など様々な分野の指導者の方々、またピーター・ガブリエル氏のような音楽や文化的な指導者や、その他の分野の方々のことを念頭に作成したものです。再度、引用させていただきます。

「世界中の人々、特に政治家、宗教者、学者、作家、ジャーナリスト、教師、芸術家やスポーツ選手など、影響力を持つリーダーの皆さんに呼び掛けます。いささかでも戦争や核兵器を容認する言辞は弄せず、戦争を起こさせないために、また絶対悪である核兵器を使わせず廃絶するために、日常のレベルで祈り、発言し、行動していこうではありませんか。」

最後にもう一点だけ付け加えたいと思います。核兵器との闘いは、市民が勝利できる闘いです。事実、我々が直面している問題の中で最も容易な闘いだと信じています。核兵器を廃絶することは、貧困や人種差別、社会的不公正や戦争そのものを廃絶することよりも容易です。地球の温暖化や環境汚染を止めるよりはるかに簡単なのです。核兵器は絶対悪であり、ほんの少数の人からしか支持を得ていないのです。我々を含め世界の大多数が廃絶を願っているのです。

国連では、177対2といった圧倒的な数で常に核兵器の側が負けています。2005年3月の米国内の世論調査では、米国も含めいずれの国も核兵器を持つべきではないとの意見が66%に達しています。核兵器廃絶を願う全ての国家や市民が、核兵器廃絶のために活動を起こすと決心すればどうなるか想像してみてください。世界中の首都という首都は、「爆弾は駄目」とか、「2020年までの核兵器廃絶」といったプラカードを持った人たちであふれるでしょう。

核兵器の廃絶は、人類の団結、理性ある行動、国際協力や世界的な良識を測る比較的簡単な試金石です。人類の存続に不必要、かつ違法、そして極度に危険なこれらの兵器を完全に廃絶するために人類が協力できないのであれば、我々は如何にして、私たちが直面しているその他のより難解な世界的問題を解決することができるのでしょうか。

この部屋におられるほんの数人の方々でも、この問題に取り組んでいただければ、人類は簡単にこの試験に合格することができると確信しています。我々には数があります。力があります。そして、より明るい未来を選ぶことが出来るのです。私たちの子供や、その子どもたちにとってより安全な地球を残すことができるのです。そして2020年までには、核兵器のない地球で暮らすことができるのです。

ご清聴ありがとうございました。