開設大学とシラバス

関西学院大学 平和学「広島・長崎講座」 市長講演-ヒロシマのメッセージ-

日時:2005年4月12日(火)10:50~12:20
場所:関西学院大学・西宮上ヶ原キャンパス

皆さんおはようございます。ただ今、御紹介いただきました広島市長の秋葉です。今日は、広島・長崎について皆さんが勉強する初めとして、広島市で取り組んでいるいくつかの課題と被爆体験全体の意味について、概括的なことをお話できればと思います。

最初に、皆さんの中にはご覧になった方もいると思いますが、改めて被爆体験というものがどのくらい酷いものだったのか、写真と絵を見てもらうことから始めたいと思います。大変悲惨な絵ですが、皆さんに是非現実を知ってもらうことから始める必要があると思います。なぜ改めて皆さんに見てもらうことにしたのかというと、私も被爆者ではありません。ですから、いろいろな形で被爆体験-実相という言葉を使いますが-実際に被爆体験というのはどれほど酷いものだったのか、その中で被爆者はどのように生きてきたのかということを、いろいろな形で勉強しました。勉強した結果、それなりに理解できるようになっているところがあります。我々の世代の悪い癖ですが、自分が知っていることは、他の人も、特に若い人もわかっているだろうと思って話をしてしまうことが随分ありました。ところが、若い世代の皆さんは、例えば20年位前に世界的に核兵器を凍結しようという運動があったのですが、その核凍結運動の時に生まれていなかった人がほとんどですし、生まれていても赤ん坊だったわけですから、当時のことを知っているはずがありません。その世代の人たちに、我々がちょうどその頃、一生懸命勉強して知識として得たことを知っていると期待するのはとんでもない話です。しかし、高齢者というとまだ高齢者にはなっていないのですが-高齢者というのは70歳以上だそうですから-年齢が上の私たちは往々にしてそう思ってしまうのです。それを反省して、まず何枚かの被爆直後の写真を見ていただきたいと思います。

かなり酷い写真で、8月の写真です。広島市内の広島駅に近い所に段原という町があり、その段原中学校に収容された子どもです。これは、爆心地から2.6㎞の所で被爆した子どもです。大火傷をしています。

次は、これも8月ですが、挺身隊として出動作業中に被爆して、大火傷をした女子中学生の写真です。

次は、8月7日に撮影されたことがわかっています。似島という島が広島湾にあり、そこが怪我をした被爆者の収容所になりました。そこで撮った写真です。爆心地から約9㎞離れていますので、似島はあまり被害がなく、船で被爆者を搬送して手当てをしました。そこでも亡くなった人がたくさんいます。去年の5月から7月に、かつてここで治療を受けて亡くなり、仮埋葬された人たちの遺骨85体が発見されました。

これは、8月7日の同じく似島の写真です。熱線で火

傷をした人です。 これも、8月7日に撮影された写真です。熱線で火傷をしている写真です。

これは、8月15日に撮影された写真です。熱線で火傷をしています。白は熱、光を反射しますから、黒っぽい模様のあったところだけ酷く火傷になっています。白が反射したとはいっても火傷はしているので、その程度がはっきり違うことがわかると思います。

これは、8月10日に撮られた写真です。爆心地から500m位離れた西練兵場というところで犠牲になった人です。この写真の特徴は爆風です。熱による火傷の話をしましたが、風も凄かった。熱風によって、もの凄い風圧がかかり、その圧力で家が簡単に潰れてしまうということもありました。それと同時に風圧によって、瞬間的に周りの気圧が極端に下がってしまう。体内の圧力と対外の気圧の差で、眼球や内臓が飛び出すということがたくさんありました。そういう影響を受けた人の写真です。

これは、放射線障害による歯茎からの出血の写真です。放射線によって体中に異変が起きます。これは歯茎なので外から見えますが、見えない体内のあらゆる内臓から出血し、それが死に至る状況です。

これは9月3日に撮った写真です。こういう状態で死の直前になると、血斑が出てきます。紫色の皮下出血斑が出て、そうすると死に近くなるということが普通の人にも当時はわかったそうです。この人は、爆心から1㎞離れた木造家屋の中で被爆をしています。ですから、放射線は木を通して直接当たったという状況です。

これは、10月頃に撮られた写真です。爆心地から1㎞離れた自宅で被爆した人です。お姉さんと二人が同じ状況だったのですが、2か月位経ってから、脱毛症状が出てきました。日赤病院で一応の治療をしたのですが、その後亡くなりました。お姉さんもその後亡くなっています。

これは、爆心地から900mで被爆した人で、ケロイドという症状です。写真が撮られたのは随分遅いのですが、火傷の痕が少し治りかけた時に、その痕が異常に盛り上がってくるという状態が、たくさんの人に見られました。その当時は、なぜこういったことが起きるのか、メカニズムが全くわかっていなかったということです。

これは、11月の写真です。肩から鞄を提げていたところだけ火傷をしていないという状況です。これもケロイドです。

次からは被爆者が描いた絵です。

これは、上流川町という爆心地から約1㎞の所です。生き残った被爆者が、後にその状況を記憶をたどって描いた絵です。赤ちゃんを抱えた女性が、片足を上げる状態のままで黒焦げになって死んでいる絵です。逃げる途中あるいは歩いている時に熱線を浴び、足を上げたまま黒焦げになって、それが固定して死んでいるという絵です。

これは8月7日の午前9時頃、つまり翌日の朝に見た光景として描かれた絵で、これも上流川町です。子どもを抱きかかえたまま黒焦げになっている親子、お母さんと子どもで、子どもは真っ黒に焼け焦げている絵です。

これは、西白島町という爆心地から約1.4㎞離れた所です。家の下敷きになった娘を壁を壊して助け出そうとする母親の姿を描いた絵です。残念ながら火が襲ってきて、その火から逃れるために、母親は娘を助けることができませんでした。

これは、火傷で皮膚が垂れ下がった女性です。じゃがいもの薄皮のように垂れ下がった皮膚が、爪のところで止まっています。こういう姿で避難をする姿が、広島市内の至る所で見られたという証言がたくさんあります。

これは8月6日で、爆心地から約1.3㎞西の天満町で見かけた状況です。同じように皮膚が垂れ下がっている絵です。

これは8月8日に見たシーンだそうです。顔にガラスの破片がいっぱい突き刺さったまま、そういう人たちが自分たちの肉親を探している絵です。

これは8月7日の朝です。爆心地から2.5㎞位離れた所のシーンです。広島の周辺の地域から広島市内に建物疎開-空襲があった時に火事にならないために建物を壊す作業-のために動員されていた人たちがたくさんいました。大竹という広島から40㎞位離れた町があり、そこからその人たちを助けにトラックで迎えに来て、そのトラックに火傷をした人がたくさん乗っており、ヒーヒー泣いていて、髪は逆立ち、服はボロボロに焼け、体は水ぶくれで人間とは思えなかったというコメントがこの絵にはついています。

これは8月7日の朝のシーンだそうです。相生橋の西詰で爆心地から約500mの所です。防火用水というものがありました。空襲によって消火活動をしなければならない時のために、水を貯めておくコンクリート製や木製のものです。その中の水を求めたたくさんの被爆者がそのまま死んでしまったという絵です。

初めてご覧になった方もいらっしゃると思いますけど、大変酷い状況です。しかし、ここでもう一つ覚えておいてほしいのは、当時はこんなものではなかったということです。写真を見ても、被爆の証言を聞いても、当時その場にいた被爆者の人たちは「こんなもんじゃないんだ。こんな写真じゃ、その時のことはとても伝えられないんだ」と異口同音に言います。その当時の状況をもっとよく理解するためには、こうしたところから一歩ずつその状況を想像する以外にありませんが、ただ頭の中で想像しろといっても難しいです。そこで、一つは、もう少し近づくために広島の平和記念資料館に行って、皆さんに展示を見てもらいたいと思います。今日は写真だけでしたが、写真だけではなく、例えば黒焦げになった弁当箱の現物があったり、三輪車があったり、実際に曲がったあるいは焼けたいろいろな展示があります。そうした総体を見ることで、もう一歩近づくことができると思います。広島全体が無くなってしまったということもパノラマ写真があり、想像するのに役立つと思います。

それでもまだ足りません。例えばどういうことが足りないかというと、いくらそういうものを見ても、これは被爆者の皆さんに聞けばよくわかりますが、臭いが全くありません。広島中が焼け野原になったわけですから、火事の臭いもありますし、その中で多くの人が焼け死にました。焼け死んだ人だけではなく、亡くなった人を市内至る所で荼毘に付しました。その臭いが今でも鼻から抜けないという人がいます。そういう臭いがありません。また、触覚がありません。髪がこういうふうにバラバラになるようなもの凄い風が吹いたわけですから、その中で市内の至る所にはゴミがあり、塵があり、そういった物が空気の中に混じって吹き荒れていた。黒い雨も降りました。そういったものを皮膚で感じるということも加わっていません。あるいは、さっきの手の皮が剥けたという話もありますけれども、例えば苦しんでいる人に水を飲ませようと思って、水を汲んできて、その人の手を取って起こして水を飲ませようとしたけれども、その時に手の皮がズルッと剥けてしまって、そのまま助けてあげることができなかった。そういう感触も伝わってこない。そういうことを一つひとつ考えると、今皆さんに見てもらった写真は、大変残酷な写真ですけども、残酷さというのはとてもとてもこれだけでは表現できない、そういう残酷さだったということだと思います。それを是非覚えておいてもらいたいと思います。そのことについては、後でまた言及したいと思います。

そうした中で、被爆者の生活が始まりました。この苦しさをなんとか乗り越えようということだったわけですけれども、その後の被爆者の生きてきた意味、生き残ってそして現在まで様々な努力をしてきた意味というものを断片でもお話したいと思います。それを理解してもらうために、その意味が非常によく描かれている詩を二つ読みたいと思います。

一つは栗原貞子さんという詩人の詩です。残念ながらつい最近亡くなりました。この詩が、被爆者が生き残った意味というものを大変よく示してくれていると思います。 「生ましめんかな」という詩です。

こわれたビルディングの地下室の夜だった。 原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声が聞こえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。

マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも

これは実際にあった話をそのまま詩に詠ったものです。
それからもう一つ峠三吉という詩人がいますが、その人の叫びの詩ですけれども、これを読ませてもらいます。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

この詩を書いた峠三吉はいろいろな詩を残していますけれども、大変悲惨な人生を送りました。

こういう被爆者のメッセージをできるだけたくさんの人に理解してもらいたい。平和を創るために、あるいは核兵器を廃絶するために、皆さんの力も借りて何とか実現しようというのがヒロシマの気持ちです。あらためて被爆者の置かれた状況、その後被爆者がどういう仕事をしてきたのかということを、まずお話しておきたいと思います。それを少し膨らませる形で、今までどんな努力が行われてきたかを説明して、先ほど野田先生からお話がありました5月に開かれるNPT再検討会議でどんなことをしようとしているのかというところにつなげたいと思います。

最初に、1999年の平和宣言の中で、被爆者が今まで生きてきたうえで非常に重要な三つの足跡を残してくれるということを言っています。その三つの足跡について、お話をしたいと思います。

第一に、死を選んでも誰も非難できないような状況の中で、それでも生きることを選び、そして人間であり続けたということです。これは、簡単なことのように見えますが、通常の状況であれば、生と死のどっちを選ぶのかという選択があれば、生きるほうを選ぶのが当然だと私たちは考えますけれども、それは正常な状態、常識的な環境が与えられた時にはおそらくそうだろうと思います。一つ大事なのは、先ほどの写真で見てもらったように、それから少し付け加えたように、原爆がつくりだした地獄というのは正常な通常の状態ではなかったということです。そこでは、生き残ったということを自分で理解できた人が、事実、列車に身を投げて自殺をするということが現実として起こっていた状況です。ですから、死を選ぶほうが自然な状況で、そういう状況もあるのだということを、まず私たちの想像の範囲にはないかもしれないけれども、そういうところを是非理解してほしいと思います。

そのことを私が特に痛感したのは、先ほど言いましたけれども、1980年代に世界的に核凍結運動が盛んになった時期があります。その時に、声帯模写それから「お笑い三人組」というテレビの番組があったのですが、それに出ていた江戸屋猫八さんという人が話したことです。その江戸屋猫八さんは被爆者だったのです。彼が、被爆後数日経ってからのことだと思いますけれども、広島から列車に乗って、自分の故郷に帰るのか、ともかくどこかに移動する夜の列車で、しばらく走るとガタンという大きな音がして止まってしまう。しばらく経ってまた走り始めると、またガタンという大きな音がして列車が止まってしまう。どうしたのかと車掌さんに聞くと、あれは原爆で生き残った人が身を投げているということだったのです。それで列車が止まるのです。それが何回もあったという話を、猫八さんはテレビの番組で話してくれました。あるいは被爆者の証言の中にもたくさんありますけども、被爆直後に川に逃げた人たちがたくさんいます。例えば、ある女学生が水の中に入り、どんどん深い方に行って「もう死にたい、早く死にたい」と言って川の中に身を沈めていったという証言もあります。先ほどのお母さんのように娘を火事から救いたいと一生懸命努力した人たちもいました。水を飲みたいと言う人たちに水を汲んできて飲ませた人たちもいました。水を飲むと死んじゃうから、水を飲ましちゃいけないということを一生懸命伝えて、水を飲ませなかった人たちもいました。なんとか自分たちが生きるように、あるいは被爆して苦しんでいる人たちが生きられるように努力をした人も当然いたのですが、その中でかなりの数の人たちが死を選ばざるを得なかった。それを誰も非難できるような状況ではなかった。やっぱりそういう状況の中で生きようと思うこと、生き続けること。その後の社会がある程度平穏になった時代になっても、例えば差別があったり、体があれだけ酷いやけどをしていたり、放射線被害があったわけですから、放射線の被害について今でも十分にわからないことがありますけども、当時でもそのことがたくさんの人に知られるまでに時間がかかり、原因がわからずに体はしんどい状態だった。仕事もない、そうした中で差別をされ、大変な生活をした人たちもいたのですけれども、それでも生きようと思って頑張ってきた。人間として少しでも社会に貢献しようと思って頑張って来た人たちが、全てではないかもしれないけど、ほとんどの人がそうした努力をして生きてきた。人間であり続けた。このことはとても大事なことだと思います。ゲームの世界では、あまりこういうシーンは出てきません。ゲームのシーンでは、やられたらやり返す、悪いやつは殺せばいいということがほとんどのシナリオですけれども、その中で苦しみに耐えながら、それでも人間であり続けるというシナリオはほとんど出てこない。しかし、現実としてこれが原爆後の広島の姿だったということが非常に重要だと思います。

被爆者が残してくれた第二の足跡は、それほど酷い状態ですから、8月6日のこと、それからその後のことをわざわざ思い出そうとする人はあまりいません。できれば忘れたい。忘れたいどころか、もっと本当に心から願っていることは何かというと、時計を8月6日の前まで戻してしまって、原爆なんていうものが存在しない時の流れを全く別に作って、そっちを歩みたかった。そういうことを願っている人たちがはるかに多い。それほど強烈な記憶だし、それほど忘れたい経験です。だけれどもその経験を一生懸命若い人たちに自分の辛い思いを語る。語るということは、またその場にもう一度自分を連れ戻すということですから、その辛い経験をもう一度しなければならない。痛みをもう一度思い出さなければならない。あるいは、さっき言ったような感覚的な、臭いもそうだし、手に残っている感覚もそうでしょうし、全ての時をその時点に戻して、もう一度辛い思い、苦しい思い、痛みを自分が味合わなければならない。にもかかわらず、そういったことを私たちに一生懸命話してくれる被爆者がいるということがとても大事な点だと思います。

ジョン・ハーシーという人がいます。彼は作家として有名で、1946年に広島にやって来ました。彼は6人の被爆者の被爆直後から1年間、被爆者がどういう思いを持って生活して来たのかを克明に書き留めました。1946年8月31日号の「ニューヨーカー」という雑誌、今でもニューヨークのことを知るためにいい雑誌で、文学であるとか、文芸評論とか詩とかそういう面では大変質の高い雑誌ですけども、その8月31日号全部をハーシーさんのレポートにまとめて広島の惨状を伝えてくれました。1日で30万部売れたといわれています。そのハーシーさんは、1985年に広島に戻ってきて、その当時インタビューをした6人の被爆者のその後のレポートをまたニューヨーカーに書いてくれました。もちろん6人全員が生きていたわけではなくて、亡くなった方もいました。そのレポートを書いてくれた時に、ハーシーさんと話をしたことがあります。彼が住んでいたのは、マサチューセッツ州のリゾート地として知られているマーサス・ビニヤード(Martha’s Vineyard)という所ですが、そこで話をする機会がありました。ハーシーさんがその時私に語ってくれたのは、私も前々からそう思っていましたが、長崎以降実際に戦争の中で、あるいは人間に対して核兵器が使われなかったのは、被爆者が自分たちの経験を世界に訴え続けたからだと言ってくれました。そのことが、これからどうなるかわかりませんけども、未だに核兵器が使われていない、劣化ウラン弾も核兵器だということにすると話が違いますけども、原爆あるいは水爆といった種類の核兵器が使われていないということでは、やはり被爆者の貢献度がとても大きいと思います。

三つ目の足跡は、アインシュタイン博士が、原爆が落ちた後で言った有名な言葉で、「科学技術は世界の全てのことを変えてしまった。しかし、人間の考えそのものは変えていない。私たちには新しい世界観が必要である」というものです。実は、被爆者がずっと世界に訴えてきた考え方、そして事実自分たちが生き続けてきた世の中のシナリオというのは、アインシュタイン博士がこの世には存在しないと言った新しい考え方だと私は思っています。それはどういう考え方かというと、世界を敵対する多くの国、あるいは個人から成り立っていると見るのではなくて、人類を一つの単位として、一つの家族といってもいいのですが、協力しあう存在として考え、その人類として新しい方向性を探っていくことが大事だということです。あるいは、もう少しわかりやすい言葉で言うと、被爆者はそれを全く別の簡単な言葉で表現しています。それは、「自分たちが経験したようなこんな思いは他の誰にさせたくない。こんな思いは他の誰にもさせてはいけない」と被爆者は表現しています。広島の平和記念公園の中に原爆慰霊碑がありますけども、そこに刻まれている言葉は、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉です。この平和記念公園も原爆慰霊碑も1952年にできました。原爆が落ちてから7年経っているわけですけども、その7年の間にこうした考え方に到達したのです。原爆が落ちた直後は、まだ日本とアメリカは戦争をしていたわけですから、当然死んでいった人たちの中には、例えば「お兄さん、こんな目にあわせたアメリカが憎い、俺の仇をうってくれ」と言って死んでいった子どもがいます。あるいは、アメリカに対して憎しみが溶けなかった人たちもたくさんいますし、今被爆者の何人かに話を聞いても、その思いは単純ではないと思います。しかし、1952年に平和記念公園を作り、慰霊碑に刻む言葉を選ぶ時に、広島の人たちは、まだ7年ですから原爆の意味は非常に重い、経験としてはまだまだ忘れ去るには時間が経っていなかった時ですけれども、「過ちは繰返しませぬから」という言葉を選びました。その時に、実は広島市内で、日本の国内でもそうだったのですが、このことについて議論がありました。「それはおかしいじゃないか。広島は犠牲者なんだ。どうせ書くのならアメリカにもう一度過ちはさせませんからと過ちを犯させないと書くのならいいけれども、自分たちが過ちをしませんからというのはおかしいじゃないか」という議論がありました。しかし、現在でもそうですけれども、この慰霊碑の意味というのは、そうではなくて先ほど言った国と国、あるいは人と人を敵対関係の固定化された集団として見て、その中での問題として捉えるのではなくて、原爆というのは人類が科学技術の力によって生み出したものだから、人類の責任によって核兵器を無くして、平和な世界を築くという意味での人類全体としての責任をここに記したというのが、当時のこの言葉を選んだ人たちの考え方です。それは、先ほども言いましたけれども、全てを敵対関係という枠組みの中だけで捉えて、それだけが唯一の枠組みであるというように考える考え方とは随分違っています。それを被爆者は今でもそうした考え方に基づいて、様々な活動をしています。その様々な活動はどういうものがあるのか、皆さんにご紹介したいと思います。その中で、被爆者だけではなくて、被爆者と同じようなことを考え、行動してきた人がたくさんいます。そうした人たちの行動も含めていくつか紹介したいと思います。

まず被爆直後、1945年8月6日直後のいろいろな活動です。まず、怪我をした人、被爆した人を助ける救援活動が一番大変なことでした。薬はほとんどありません。マーキュロとか、せめてチンク油が残っているくらいで、それもすぐに無くなってしまいました。広島市内のお医者さんの8割は被爆して亡くなりました。ですから、残った人たちが懸命に救援作業をしたのですが、そのうちに周辺、あるいは日本の各地からお医者さんも来てくれましたけれども、何しろあれだけの火傷をしていますし、怪我をした人はとんでもない怪我をしているわけですから、それだけでも間に合わない。それに加えて、放射線障害、その当時は放射線が人体に及ぼす影響というのはほとんど理解されていませんでしたから、それに対する治療薬もありません。それも甲状腺がんに対症療法としてヨードを使うぐらいしか薬もないのですが、その当時は全く理解されていませんでした。そういう中で懸命な救助活動をしました。とはいえ、薬があれば助かる人もたくさんいました。それに対して、国際赤十字のジュノー博士というお医者さんが被爆直後の広島に入って-8月15日以降に日本が降伏をして、連合軍の一部として彼が広島に来て-その惨状を見て、医者として必要な医薬品を全部合わせると15トン国際的に集めて広島に持ってきてくれた。そのために命が助かった人がたくさんいました。

それから、2001年の9月11日、ニューヨークの世界貿易センターが攻撃され、たくさんの人が犠牲になった後に、広島市長として私はニューヨーク市長にお見舞いの手紙を出しましたけれども、その中で触れた人。先ほどのハーシーさんのことも触れたのですが、ハーシーさんが自分のレポートを掲載したのがニューヨークの雑誌の「ニューヨーカー」ですが、そのことによって戦争の枠組みだけではなくて、敵がやられたんだから当たり前だ、あんなに邪悪な日本がこういう目にあって万歳だと考えたアメリカ人、あるいはアジアの人たちもたくさんいたわけですけども、そういう戦争という枠組みの中ではなくて、あるいは国と国との敵対関係の中ではなくて、本当に一人ひとりの人間がどういう悲劇に見舞われ、どうそれに立ち向かっていったのかという視点から、人間としての問題として捉え、それを書いてくれたハーシーさんのことをニューヨーク市長への手紙の中に書きました。

それから、もう一人ノーマン・カズンズという人、当時、文芸評論誌の「サタデーレビュー」という雑誌の編集長をしていました。彼は当時ニューヨークに住んでいました。カズンズさんが始めてくれたとても大切な仕事が少なくとも二つあります。それ以外もありますけども、二つだけ申し上げておきます。一つは精神養子という制度を作ってくれました。原爆が落ちた後、広島にはもの凄くたくさんの原爆孤児が生まれてしまいました。それはどういうことかというと、当時は戦争中ですから空襲があるということで、かなりの数の小学生は疎開をしていました。ですから、広島市内には住んでいませんでした。親は仕事があったりしますから、広島市内に住んでいました。中学生以上は労働力として、先ほど言った建物疎開、あるいは工場で働く、学徒動員の一部ですけども、そういうかたちで市内にいました。ですから、中学生以上の被爆者はたくさんいるのですが、小学生は疎開していた人が多く、たくさんの原爆孤児が生まれてしまった。家族は全滅したけれども、子どもは田舎に疎開していたから助かった。助かったのは幸いなことだけれども、家族が全くいないから孤児になってしまった。その孤児を収容する孤児院もできました。しかし、それだけではとても足りない。その孤児たちに対する援助として、孤児たちを助けるために、ノーマン・カズンズさんは、その子どもたちの精神的な親になってほしいと、アメリカの善意の大人たちに呼びかけました。手紙を書いてくれたり、あるいはお金を送ってもらったりして、子どもたちは随分助けられました。そうした形で助けられて、今元気に活躍している人も何人もいます。そうした人たちは、このことに大変感謝しています。そういう精神養子の運動を始めてくれました。それが一つです。

もう一つは、英語では「Hiroshima maidens(ヒロシマ・メイデンズ)」と言っていますが、先ほどの写真の中に出てきたケロイド、中学生以上の学徒動員をされた子どもたちが沢山いたわけですが、その中にもちろん女の子たちもたくさんいました。ちょうど15、16、17歳という年齢で被爆した少女たちがたくさんいました。その中のたくさんの子どもたちが屋外で建物疎開の仕事をしていたり、校庭にいた人たちが、「B29が来たよ」と皆でB29を見て、その時に爆弾が落ちて熱線でやけどをしました。その人たちの顔はやけどで見るかげもなく、ケロイドができて、顔は脹れてしまうという状況でした。当時の日本で女性は、お嫁にいくということが人生の中で決まったコースでした。だから、お嫁に行く時に、顔に酷い火傷があるのかないのかということが自分の一生を決めてしまうことでした。ですから、人生に全くなんの望みも持てなくなった少女がたくさんいました。そのうち25人を選んで、ニューヨークにある世界的に有名なマウントサイナイ病院で、整形外科の手術を受けてケロイドを取るということをしました。少女たちは、その時点で希望を持って1年位アメリカに滞在したのですが、帰って来られて、もちろん手術によってケロイドが除去されて、以前よりは自分の姿に自信が持てたということもありましたが、それ以上にアメリカの人たちの善意に触れることができ、改めて未来に希望を持つことができたことがとても大きかったと聞いています。しかし、そこでもう一つ大事なのは、それはアメリカの人たちの善意だけではなく、少女たちがひたむきに自分たちの未来を良いものにしたい、その可能性を掴みたい、生きたいという思いが、アメリカの人たちに伝わった結果だと思います。そこのところが非常に重要だと思います。そのように様々な形で原爆後の悲惨さを乗り越えようとした人たちが、そして乗り越えた人たちがいました。それが被爆直後の色々な活動ですが、あと一人、二人、名前を挙げたいと思います。

フロイド・シュモーさんという人がいらっしゃいます。この方もつい最近亡くなられました。とても長寿だったのですが、彼は原爆が落ちた後、それが自分の身の上に落ちたと感じて、アメリカでお金を集めて大工道具を持って、仲間を募って広島にやってきました。そして自分の手で家を建て、広島の人たちにその家を贈りました。

バーバラ・レイノルズさん、彼女は10年くらい前に亡くなっています。彼女の夫は、今は放射線影響研究所(RERF)という施設-戦後すぐはABCCと呼ばれており、非常に悪名の高い研究機関でしたが-そこで研究をしていました。この施設は、今は純粋な研究機関としてかなり評価されていますが、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)と呼ばれていた頃は、原爆にあった人たちの治療はしないけれど、原爆の結果どういう影響を受けたかということを詳細に調べた研究所です。彼女の夫はそこの研究員として夫婦で広島に来て、広島の惨状を見て、結局研究所を辞めて、広島の被爆者の救援のために立ち上がりました。その後、レイノルズさんは家族全員で、1954年にビキニ水爆で久保山愛吉さんが亡くなった後、またアメリカは核実験を続けましたが、それに抗議するために自分たちのヨットでその核実験が行われる海域に乗り込んでいった女性です。その後アメリカの大学に「広島・長崎文庫」、「広島・長崎講座」をつくり、また広島には「ワールドフレンドシップセンター」という施設をつくり、世界の人たちに広島の意味を伝える仕事をしてこられました。

その後の色々な運動を簡単に言いますと、1954年にビキニで水爆実験が行われ、久保山愛吉さんという第五福竜丸に乗っていた無線長が亡くなった後、日本では原水爆禁止運動が大変盛んになりました。そこで大事なのは、第一回の原水爆禁止世界大会が広島で開かれた時、被爆者の何人かが招かれて自分の経験を話すという機会を与えられました。その時に被爆者の何人かは「生きいてよかった」ということを初めて感じたと言います。これは、死んでも非難できないような状況だった、自分は死にたいと思った、それでも一生懸命生きてきたけれど、その生きてきた1954年までの約10年間がいかに辛かったかということです。それでようやく「生きていてよかった」と感じたのですが、それは自分たちが考えてきた「こんな思いは他の誰にもさせてはいけない」ということが、これだけたくさんの人々に理解されたという喜びでもあるでしょうし、あるいは自分の苦労をわかってくれた人がいるんだという気持ちだったかもしれません。それが1954年に始まった原水爆禁止運動の最初の頃の状態です。

それから色々と問題はあるのですが、話を簡単にするためにその一つの成果が1963年の部分的核実験禁止条約です。これは簡単に言うと、それまでは大気中での核実験が許されていました。皆さんはとても考えられないと思いますが、今日のように雨が降ると、我々が子供の頃は「雨にあたってはダメだよ。髪の毛が抜けるから」というジョークではなく本当にそういう心配をしました。それから、世界中で何か問題があると、例えば子どもたちの間で悲惨な事件が起こると、あれは放射能の影響だということを本当に皆まじめに考えた時代でした。それで、1963年に大気中の核実験が禁止されたというのが一つの大きな前進で、その後は核兵器の問題はちょっと下火になりましたが、その後やはり米ソの対立で非常に大きな問題がたくさん出てきました。先ほど言ったように、1980年代に核兵器の凍結運動が起こりました。これは核兵器を無くすということはとても無理だから、せめて今の状態で凍結してこれ以上核兵器を増やさないようにしようという運動です。それが達成できたら次の段階に進もうということで、大変大きな運動になりましたけれども、結局そうした運動も1989年のベルリンの壁が崩壊することで勢いを失いました。1989年は米ソの対立が存在しなくなった始まりですから、そのことによって、もう核兵器の問題は存在しないと考える人が増えてしまったのですが、残念な事に核兵器の問題は米ソの対立が無くなった後でも続いています。例えば、一つの問題は、現在世界中で核兵器を持っている国、元々の5か国以外にインド、パキスタン、北朝鮮、そしてイスラエルも持っていると言われていますが、たくさんの国があります。それらの国々は何かあったら、数秒以内にミサイルを発射できる状態で核兵器を持っています。ボタン一つ押せば、世界が滅亡するような状態が今でも続いています。だからボタンを押すかどうかというところだけが問題になっている世界です。その状態は、ベルリンの壁が崩壊する前と全く変わっていない。実はそういう状態の中で、米ソの対立の中で、アメリカが攻撃してきたという信号が発せられてから6秒以内にどうするかということを決めなくてはいけない状況の中で、あれは誤りの信号だったからミサイルは撃たないという決定をしたような状況もあるわけだし、それからキューバ危機というものもありました。あれも同じようにやはり核兵器を使うかどうかということで、最後の最後まで悩んだ末に使わなかったというケースです。問題はこういう状態は、今までは我々が知っているだけでも、核兵器を発射するボタンを押すか押さないかということを最後の数秒でもって決めて、結局押さなかったという状況が続いていますけれども、これからそれが続くとしたら、それが何十回目になるかわかりませんけれども、ことによったら3回目かもしれません、それは皆さんも色々な経験から想像できると思いますけれども、必ずどこかで判断の誤りをする人が出てきます。ですから、そういう状態が続いているということは、あと3回そういうことが起きた時に誰かが誤ってか、あるいは正しくか、わからないけれども核兵器のボタンを押す可能性がある、あるいは100回目かもしれない、100回目というのがどれ位のインターバルで起こるのかわかりませんけれども、そういう危険な状態になっているのです。その状態は全く変わっていません。今までの核兵器を無くしましょうという様々な運動の中で、そういう危険があるから大変じゃないかということで世界中が問題の認識を新たにしたということが随分あるのですけれども、残念ながら今はそうしたことはほとんど忘れられてしまっています。しかし、危険な状態は続いています。

それから核兵器を無くすための条約はほとんどない状態ですけれども、先ほど申し上げました核不拡散条約という条約があります。これは、現在の条約の中で、核兵器を持っている国に対する唯一の規制力を持っている条約です。この6条に「核兵器保有国は核兵器をなくすために努力をしなければならない」と書いてあります。努力義務ですが、しかし努力義務でも義務は義務ですから、これ以外の条約では核兵器保有国に対する責任、核兵器を廃絶するという責任を明確に謳った条約はありません。ところが、この核不拡散条約が崩壊の危機に瀕している。それは、一つにはアメリカが、例えば使える核兵器を開発しようとか、あるいはCTBT(包括的核実験禁止条約)が発効するのを妨害しようとしている。あるいは北朝鮮が、核不拡散条約から脱退して自分たちは核兵器を作ったんだと言っていますけれども、ともかく持っているということを示しています。あるいは、インド、パキスタン、イスラエルがこの条約を締約していない。そういう状況の中で、核兵器が使われる可能性は非常に増えてきている。しかも、通常兵器と核兵器との間の差が無くなってきています。これは、ハーシーさんが言ったように、被爆者が警告を発したから、核兵器だけは使うのをやめようと考えているリーダーが仮にいたとしても、その核兵器だけはという境界がぼやけ始めてきているので、非常に大きな危険にさらされている。それからテロ集団による核兵器の使用ということも非常に大きな問題です。特に、大きな都市が直接核の危険にさらされる以上に、産業上の色々な拠点があります。例えば油送管やあるいは空港や港といった交通の要所もありますけれども、こうした所で仮にテログループが核兵器を使ったらどうなるのか。とんでもない経済的な損失というか、世界が麻痺をしてしまう。非常に小さな核兵器でもそんなことができるのだということを言う人も出てきています。ですから核兵器の存在によって、世界の状態が非常に悪くなっているということを我々はもう一度考え直す必要があると思います。

もう一つ付け加えておきたいのが、被爆者の人たちが持っているモニーターというか危険感知機、被爆者の中の何人かは「核兵器は絶対に使わせてはいけない」ということだけをと言うと言いすぎですけども、それを自分の人生の目標として一生懸命努力してきた人たちがかなりの数います。その人たちは世界の情勢を見て、本当に核兵器が使われるのかどうか、だったら心配だから何かしなくてはいけないと声をあげてきた人たちです。ですから、私たち以上に核兵器が使われるか使われないのか、その可能性がどれ位あるのかということについて敏感に反応できる人たちです。その人たちが今言っているのは、「核兵器が使われる可能性が非常に大きい」、「私たちは心配だ」、「何とかしなくちゃいけない」、「何とかしてください」ということです。被爆者の「何とかしてください」というのは怠慢じゃないかと言うこともできますが、被爆者の平均年齢は72歳です。先ほども言いましたように、ほとんどの人が傷を負い、被爆したということによって色々な障害を持っているわけですが、それでも努力して今でも世界に発信し続けています。にもかかわらず、そういうことを言わざるを得ないのは、やはり体力的に随分限界を感じてきている被爆者が非常に多いということです。

平和市長会議では、その被爆者の皆さんの声をなんとか世界的にもっと現実のものに近づけるために、「核兵器廃絶のための緊急行動」というものを作りました。これは2020年までに核兵器を廃絶するということを目標にしています。2020年ですから我々にとっては、本当に2020年までに今の世界の状況でできるのかなということをまず考えるのですけれども、被爆者の人たちにこのことを言うと、最初に返ってくる答えが「2020年では遅い。私たちのうちの何人が2020年に生きているんだ。核兵器の廃絶はもっと早くやってもらわなくてはいけない」ということです。

平和市長会議は、世界の市長の集まりです。都市の集まりで、今加盟都市が912ありますけれども、この世界の都市の力で、なぜ国ではなく都市かというと、我々は市長としてその都市の中で市民の安全を守る責任があるわけですから、仮に核兵器が使われた場合でも我々はその責任を果たさなくてはいけない。ところがどう考えても核兵器が使われた場合には、さっきの写真を見てもらえばわかると思いますけれども、市長がいくら頑張ってもあれだけの火傷をした人たちを救うことはできません。死にたいと思って身を投げる人を一人ひとり救うことはできません。これはIPPNW(核戦争防止国際世界医師会議)が-1995年にノーベル平和賞を受賞しましたけれども-1980年代に核戦争が万一起こったら皆さんは医者の所に来て、治療してくださいと言うでしょう、しかし医者としてそういうことはできません、だから核戦争が起きた後、医者に治療してくださいということがだめだったら、その核戦争を起こさないこと、核戦争を起こさないためには核兵器を廃絶する以外には道はありません、ということで大きな運動を起こしました。それがさっき言った核凍結運動の一部ですが、そのお医者さんたちと同じように、我々市長のレベルでは、地方自治体のレベルでは、何もすることができない。だから核兵器を廃絶しなくてはならないということで、国連でなんとか被爆者の願いを実現しようと努力しています。

この我々の努力は、かなり世界的に広がっており、例えば今加盟都市が912と言いましたが、6年前に私が市長になった時には、400位でしたから2倍以上に増えました。それからもう一つ二つ申し上げますと、アメリカに全米市長会議という組織があります。これはアメリカの核政策が核不拡散体制を崩壊させつつあるということを言いましたけれども、それは連邦政府の方針です。民主主義国だからアメリカの国民全部がその考え方に賛成かというと、そうではありません。アメリカ市民の3分の2位は、核兵器は無くすべきだと考えていますし、それから全米市長会議、人口3万人以上の都市1183の市長が加盟している組織ですけれども、この全米市長会議では我々の「核兵器廃絶のための緊急行動」、英語では「Twenty Twenty Vision」と言っていますが、これを支持する決議を昨年の6月の総会で採択してくれました。その決議の内容は、ブッシュ大統領に対して全米市長会議として核兵器を廃絶するための交渉を始めるように要請するというのが中心になっています。そのために、平和市長会議で進めている緊急行動を支持するという内容です。これが今世界的に広がって色々な国で、その国の市長が自分の国の政府に対して同じことを要請します、アメリカの市長たちの行動を支持します、私たちは自分たちの国で同じような行動をとります、ということの署名運動を始めて、各国政府に要請に行っています。ベルギー、ドイツではそうした行動の一部として、私もベルギーとドイツの外務省にNGOの人たちと一緒に出かけました。その結果として、5月に私たちは平和市長会議として、世界の色々な都市からの100人の市長、市の代表が集まって、国連のNPT再検討会議の中で、2020年までには核兵器を廃絶するというプログラムをぜひ始めてください、その第一歩は核兵器を廃絶するための多国間交渉を始めてください、ということを要請するつもりです。それに応えた何らかの文書を再検討会議で採択してもらいたい、そういう思いで4月の末から5月には、ニューヨークに行くことになっています。

最後に、皆さんに何ができるのかということですが、一つは関心のある人は是非ニューヨークに一緒に行きましょう。今ニューヨークに行って帰ってくるのに安い航空券がありますから、そんなにお金はかかりません。あるいは皆が行けないのだったら、何人かで集まって少しずつカンパをして、誰か代表を送ってもいいかもしれません。皆さんの考えている核兵器に対する、あるいは世界の問題についての考え方をニューヨークの市民、あるいは国連に加盟している国の政府代表に伝える、そういうことが可能ですし、我々と一緒に行動してもらえれば、そういう場に一緒に行って発言してもらうことは可能だと思います。

もう一つは、是非広島の平和記念資料館を訪れてもらいたいということと、それからできれば被爆の体験記を読んで下さい。これは簡単にできることだと思います。被爆の体験記を読む時に、自分だけで読むのではなくて、グループを作って子供たちに読んであげるのでもいいし、あるいはどこかのグループ、自分たちのグループを作って読んでもらうのでもいいですけれども、声を出して朗読してください。その体験記を共有するということで、またそれが新しい体験につながりますから、そこから新しいエネルギーが出てくると思います。

それから、映画を観てください。原爆についてのいい映画がたくさんあります。例えば、私が子どもの時に観た映画で、新藤兼人監督-文化勲章を受賞されましたけれども-彼が作った「原爆の子」という映画があります。こういう昔の映画でも、最近はビデオやDVDで簡単に手に入ります。それから英語の映画だと、1959年にできた「ON THE BEACH(渚にて)」という映画があります。これも観てください。これは、北半球で核戦争が起きて南半球は生き残るのですけれども、南半球のオーストラリアでも最終的には放射線に侵されて、地球が全滅するという映画です。私は、これを高校生の時に観ましたけれども、最後のシーンがとても印象的でした。今日の話の最後にそのことを皆さんにお伝えしたいと思います。その映画の中に救世軍というキリスト教の活動の一つで、「Salvation Army」と言いますが、救世軍の人たちの活動が映画の中にインサートされています。その人たちは、「今からでも遅くはない。人類は滅亡するけれども、今キリスト教に改宗すれば皆さんの魂は救われます」と言って、横断幕を掲げています。その横断幕は「Brother, there is still time(まだ時間は残っています)」というものです。映画の最後のシーンは、人類が全ていなくなってしまう、人類が絶滅した後のシドニーの街で、その横断幕だけがはためいているのです。そのメッセージが「Brother, there is still time」、つまり映画から現実に戻って、今だったらまだこうした破局を、全人類が破滅してしまうような破局を避けるために、まだ時間は残っているのですよというのが映画の最後のメッセージです。それで我々はそのために、色々と努力していますが、皆さんにも、そのことを改めて申し上げたいと思います。今ならまだ時間は残っている、行動するかどうかは皆さんの決意次第だと思います。ご清聴ありがとうございました。 

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