開設大学とシラバス

関西学院大学 平和学「広島・長崎講座」市長講演-ヒロシマのメッセージ-

日時:2004年4月13日(火)13:30~15:00
場所:関西学院大学・西宮上ヶ原キャンパス

皆さん今日は。ただ今、御紹介いただきました広島市長の秋葉です。今ご紹介いただいたように、かつては大学で教えていましたが、最近は学生諸君の前で話をすることがないので、聞きにくいところがあればお許しいただきたいと思います。

今日は、平松学長に招きいただいたこと、また、浅野副学長、村田先生、野田先生、この広島・長崎講座を開設するにあたってご尽力くださった先生方に、お礼を申し上げたいと思います。そして、このように多くの学生の前でお話できることを大変嬉しく思っています。皆さんの熱意が関西学院大学の名を高らしめることを心から祈っております。

昨年8月に、原爆の子の像に捧げられた折り鶴が焼失するという悲しい事件が起きました。その学生は、その後大変反省していることを聞いています。そして、現役の学生の皆さん、卒業生の皆さん、関係者の皆さんが鶴を折ることによって、平和の意味を考えようと積極的な行動を取っていただいたことに、勇気づけられています。私は、そのことがとても大事だと思っています。そうした皆さんの気持ちがこの講座の意義を高らしめることになると思います。実は、関西学院大学で広島・長崎講座を開設したいというお話は、昨年8月の事件の前から伺っていました。広島市としてもお手伝いをさせていただこうと考えていた時期に、あの事件が起きました。この講座は、事件があったためにできたのではなく、関西学院大学の建学の精神が多くの先輩方から引き継がれてこの講座に実り、悲しい折り鶴の事件をも乗り越えて、素晴らしい講座になろうとしているのです。是非、皆さんが一生懸命勉強することで、その積極的な意味を作っていっていただきたいと思います。

広島市では現在、世界のできるだけ多くの大学で、広島・長崎講座を開設してもらうよう様々な働きかけをしています。広島市とはいえ一地方自治体ですし、財政的に大変厳しい状況にあります。したがって、私たちが自治体としてできることには限界がありますが、世界中のできるだけ多くの大学で、できるだけ多くの若者に、被爆者のメッセージを伝えることがとても大事だと考えています。最初に取り組んでいただく大学の一つとして関西学院大学が応えてくださったことに、私は非常に大きな意味があると思っています。

実は、私は、もともと広島の人間ではありません。そして、被爆体験もありません。そういう人間が広島の市長をしています。これは戦後の広島市長としては初めてで、時代の流れを反映している一つだと思います。私の経験を被爆者のメッセージと合わせてお伝えすることで、広島の人間ではない、そして当然直接的な被爆体験のない皆さんが、これから世界の問題を考えていくうえで少しは参考になるのではないかと思いますので、そのことをお話したいと思います。

まず、映画と映画監督の話から始めたいと思います。一昨年の文化勲章を受賞された新藤兼人監督の話です。新藤監督は広島の出身です。新藤監督の映画をご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、独立プロという形態での映画製作をしています。これはアメリカ型の映画の作り方に非常に近く、近代映画協会という組織を作って、その中で様々な映画を作っています。彼の映画監督としてのキャリアは随分長く、現在92歳です。

新藤監督が作った映画の第二作目が、1952年、昭和27年に作られた「原爆の子」という映画です。日本は、原爆が落ちた後、連合国軍によって占領されていました。今イラクにアメリカ軍やその他の国の軍隊が入っているように、日本にも占領軍がいました。その占領が終わったのが1952年です。その年まで原爆に関する情報は、占領軍のプレスコードによって、一切外に出すことができませんでした。例えば広島で小さな短歌を集めた歌集を発行しようと思っても発売禁止になり、ましてや映画は作れない状況が続いていました。昭和27年にそれが解除になり、できた映画の一つが「原爆の子」という映画です。その元々の話は、長田新という当時の広島大学の先生が、子どもたちの手記を集めた本を出しました。これを元にして作られた映画です。

私は、小学校の5年生か6年生で、その頃はまだ映画を観ることが大変稀な状況だったので、学校から団体鑑賞で「原爆の子」を観に行きました。この映画は、大変ショッキングな映画だったので、物凄い衝撃を受け寝込んでしまい、学校を2・3日休みました。それ程ショックが大きかった映画です。その時以来、原爆のことを考えて、結局人生のほとんどの時期に原爆のことを考え、行動することで今に至っているわけです。それ程大きなショックを受けた理由の一つとして、私が小さい時の記憶が関係しています。私は、東京で生まれて、千葉に疎開していました。その千葉で、2歳半の時に空襲を受けました。空襲で家が焼けた所とは離れていましたが、2歳半の記憶が今でも大変生々しく残っています。おそらくその記憶と小学生の時に観た「原爆の子」という映画が一緒になって、物凄いショックを受けたのだと思います。もちろん原爆の悲惨さは、焼夷弾による空襲とは比べものにならない位悲惨な経験ですが、そのことがずっと頭の中にありました。

新藤監督には、文化勲章を受章された後、広島市の名誉市民になっていただきました。その時、「自分はあと1・2年はクリエイティブな活動ができそうだから、是非もう一つ映画を作りたい」というお話をしてくださいました。それは、原爆投下後の2秒間を2時間の劇的な芸術的な映画にするというものです。「2秒間」というのは比喩的な表現ですが、原爆が落ちた後、原爆が人間にどういう悲惨さをもたらしたのかを科学的なデータに基づいて、残しておく必要があるというのです。今その映画を作っておかないと、被爆者が高齢化しているから、被爆者に観てもらって、実際にこの映画がいかに真実に近いものか、あるいは遠いものか、そこを判断してもらうことができない、だから是非この映画を作りたいと話してくれました。新藤監督は、この映画を作るのに20億円かけたいと言われています。映画は20億円かけなくても作れます。事実、普通の日本映画は、4億円から5億円の製作費で作っているそうです。その4・5倍のお金をかけた原爆の映画を是非残したいというのが、新藤監督の今お持ちの夢です。私たちもなんとかそれを実現したいと思っていますが、20億円と一口で言っても大変なお金です。先程申し上げましたように自治体は財政的に大変厳しい状況にありますので、今いろいろな企業、団体等に話をしてなんとか実現させたいと考えています。なぜこのような映画が必要なのかという理由の一つは、世界を見ると、特にアメリカの状況を見ると、必ずしも原爆がどういった悲劇を人間にもたらすのかということが、十分に理解されているとはいえない現実があるからです。

 私は、全部あわせると16~17年アメリカに住んでいましたので、その経験を基にアメリカ人の原爆観、戦争観というものを見つめ、考えてきました。最初にアメリカに行ったのは、高校2年生の時です。AFSという制度でアメリカに留学しました。その時、アメリカの高校で、日本とアメリカとの歴史教育の差を経験し、大変ショックでした。その後大学院を卒業し、アメリカの大学で教えてきた経験を基にして考えると、残念なことにアメリカ人の原爆観は、それ以後そんなに大きくは変わっていないと思います。高校2年の時、1960年ですから約40年前、その当時のアメリカでの教育、そして今でもアメリカ人の中に根強く残っている考え方では、原爆は日本軍による真珠湾攻撃と並べて考えられます。並べて考えられるといっても、もちろん同じレベルで考えられるわけではありません。原爆に比べて真珠湾攻撃は、最も卑劣で、最も非人間的で、最も唾棄すべき行為だと考えています。極端に言うと、その悪を懲らしめるために、神がアメリカに原爆を与え、その神に与えられた武器で悪である日本を成敗することができたと考えています。ですから、いまだにアメリカ人の中には少数ではありますが、日本にもっとたくさん原爆を落とせばよかったと言う人がおり、被爆者のメッセージに対してそういう反応をする人がまだまだ残っています。

それと同時に、私が気付き、反省をしなければいけないと思ったことがあります。私が日本で受けた教育では、アメリカ人の考え方について、例えば真珠湾攻撃が歴史的にどういう意味を持っているのかについて、全く教えられていなかったのです。教科書以外の本や歴史の本を読んで知ってはいましたが、学校の歴史の授業では真珠湾攻撃について全く触れる時間がありませんでした。それ以前に、日本の近代の歴史について学校でほとんど教えてはくれなかったのです。これがもう一つの大きなショックでした。アメリカでは、自分たちが正しいという前提ではありますが、第二次世界大戦やその後の例えば朝鮮戦争についても高等学校できちんと教えていました。その差も大変大きな驚きでした。しかし、アメリカの高校生には、原爆がどれほど悲惨なものなのか、どれほど酷い結果をもたらす武器なのかという知識は、ほとんどありませんでした。そういう知識の偏りが日本側にもあり、アメリカ側にもあることが大変な驚きでした。それからアメリカには今でも存在していますが、当時も非常に強い人種差別がありました。日本人の中にはアメリカやその他の国において、日本人は差別されないという誤った考え方を持っている人がたくさんいますが、現実はそうではありません。逆に、日本人が例えばアジアの人たち、あるいはそれ以外の人たちに対して持つ差別感、これは差別していることに気が付かないで差別するという構造も非常に多いことをアメリカの生活で随分経験しました。

アメリカ社会での標準的な歴史観では、第二次世界大戦は今でもアメリカの最も輝かしい時期の一つです。歴史そのものに対する疑問を発しなくてもすむ時期、アメリカが正義を代表するといってそれがある意味で100%通用する時代なのです。ナチスドイツもそうですが、それ以上に悪の象徴であった真珠湾攻撃を行った日本は、温度で言えば絶対零度のような位置づけで、これより酷い悪はないことになります。それを科学技術の力によって、懲らしめることができたアメリカという見方で第二次世界大戦当時の歴史を振り返るのです。それがある意味でアメリカという国の存在価値になっているのです。

現在でもアメリカで世論調査をすると、3分の2位は原爆投下が正しかったと信じている人がいます。数字は少し変わりますが、1945年の秋頃にギャロップやハリスという世論調査会社が調査した結果では、原爆投下が正しかったという数字は85~90%位です。それから少しは減っていますが、約3分の2というのは大きな数字だと思います。大事なことは、1945年の時点で残りの約10%、つまりアメリカの原爆投下が正しいとは思わなかった、疑問を持った、あるいはそれは正しいことではないと言った人たちが約10%いたことも非常に重要です。その人たちの中の何人かは、具体的に広島に救いの手を差し伸べてくれた事実があります。

そういう人を紹介したいと思います。実は、9.11の世界貿易センターの事件があった後、ニューヨーク市長に手紙を書きました。広島とニューヨークは大きな意味で繋がりがあって、ニューヨークの市民、ニューヨークという都市が広島に差し伸べてくれた救いの手によって、復興が早まり、あるいは希望を新たに見出すことができた人が広島にはたくさんいるからです。その一人がジョン・ハーシーという人です。彼は、「ヒロシマ」というレポートを書きました。今でも、法政大学出版会から出版されています。ジョン・ハーシーは、1946年に広島に来て、6人の被爆者をインタビューし、彼らの体験を非常に淡々とした筆遣いで書きました。ニューヨークには「ニューヨーカー」という非常に知的レベルの高い雑誌があり、1946年8月31日号の全ページをハーシーのレポートに費やして、1日で80万部の売れました。ハーシーが描いた原爆は、先程申し上げた戦争という枠組みの中での広島像ではありません。具体的に戦争の結果として起きた悲劇を、被爆者一人一人の人間としての立場から、淡々としてではあるけれども人間的な悲劇として描いている。その中で、被爆者の一人一人がどう運命に立ち向かっているか、どう生活しているか、その人間の生き方を描いたことで、新しい原爆像、そして被爆者像を紹介してくれており、非常に意義のあることだと思います。その結果として、非常に多くのアメリカ人から激励の手が差し伸べられました。

 もう一人紹介します。これもジャーナリストで、ノーマン・カズンズという人です。カズンズさんは、ニューヨークに本部があった「土曜文学評論」、その後「土曜評論」という名前に変わった雑誌の編集長をしていました。カズンズさんは、少なくとも二つの大変重要なプロジェクトを発足させました。その一つは精神養子プログラムです。広島には非常にたくさんの原爆孤児が原爆の結果生まれました。日本全国で空襲が起こっていましたので、子どもたちは田舎に疎開させられ、親たちは都市部に残って仕事をしていました。原爆が広島に落ちた時、親は死んでしまい、郊外に疎開していたたくさんの子どもたちは生き残りました。両親とも亡くなり、親戚も全く死んでしまった多くの子どもたちは、原爆孤児と呼ばれていました。その原爆孤児を精神養子として精神的な親になり、手紙や学用品あるいは本の代金としてお金を送ってくれるという善意のアメリカ人を探して原爆孤児を激励してくれたのが一つです。今でもそのことを大変感謝している人たちが何人もいます。

 もう一つは、ケロイドのある女性に手術を受けさせるために渡米させるプロジェクトです。被爆時に10代だった女学生は、原爆で大変なけがを負ったために、結婚をすることも諦めなくてはいけなかったのです。そういう少女たち25人をニューヨークのマウントサイナイ病院に連れて行き、そこで整形手術を受けさせました。火傷をした痕の皮膚が膨れて醜い形になるケロイドを除去する手術を受けたわけですが、外形的に随分良くなったということ以外に、大変な経験をしたために人間社会に対する絶望観を持っていた25人の少女たちが、改めて人間に対する信頼感、あるいは未来に対する希望を持つことができたのです。こういう善意のアメリカ人の手が差し伸べられたことによって、被爆者たちのメッセージである「報復ではなく和解を」という思いがより大きくなったと、私は確信しています。

 その被爆者たちが、これまでの59年間に被爆体験をどのように活かしてきたのか、あるいは被爆体験とともに生きてきたのかを振り返って、私は1999年の平和宣言の中で三つ大事な点があると言いました。その被爆者の貢献というか偉大な足跡について、簡単に説明しておきたいと思います。

その第一は、是非皆さんに改めて平和記念資料館をご覧になっていただいたうえで、当時の状況がいかに悲惨なものであったかということを確認して、もう一度ここに戻ってきていただけると話がよくわかると思います。生と死を選ぶ中で、死を選んだとしても全くおかしくないような状況の中で生きることを選んだ。私はあえて「選んだ」と言っていますが、生きるか死ぬかという選択肢を目の前に与えられた時に、私たちは常識的には当然生きる方を選ぶと思います。それが我々の常識ですが、私がここで申し上げたいのは、その常識を超えた状況が1945年の8月6日と8月9日だったということです。それを是非理解していただきたいのです。その常識を超えた状況を「不条理の世界」と表現する人もいますが、その状況の中でもあえて生きるという道を選択したことは、並々ならぬことだと思います。常識の世界にどっぷり浸かって、それしか知らない私たちは、それを理解しようとする努力が必要だと思います。

実は、こういうことを実際に経験した人がいます。江戸屋猫八さんという声帯模写の名人で、もう亡くなった方です。彼は、当時たまたま広島の部隊で兵隊として被爆し、その後事後処理をしていました。1982年だったと思いますが、彼が証言したテレビ番組をたまたま見たことがあります。彼が列車に乗って広島を出ようとしていた時に、5~6分毎に列車がゴトンという大きな音とともに止まってしまい、しばらく待っていると動き始めて、またゴトンという音がして止まってしまう。どうしたのかと車掌さんに聞くと、実はあれは身投げをしている人がたくさんいるということだったのです。被爆体験、地獄のような世界を経験した被爆者たちが、改めて自分が生きていたことを確認した時点で、絶望のあまり死を選ばざるを得なかった。そういう状況が当時の広島だったのです。死を選んだ人がそれ程多くいた、あるいは選ばなくても生きたくても死んでいった人たちが非常に多かった中で、それでも生き続けた人、あるいは生きる意思を持ってそれがまっとうできた人、そうした生の意味を改めて私たちが考える必要があると思います。

 しかも、自分たちが受けた悲惨な思いを報復や仇討ちによって、意味を見出そうとするのではなく、一人の人間として生きていこうという決意を持って多くの被爆者がその後を生きてきたということが大変重要だと思います。その点について平和記念資料館を見た後で、是非皆さんに考えていただきたいと思います。

第二の足跡は、自分たちの経験を世界中に向かって話し続けてくれたことです。原爆というのは大変な酷い状況でしたから、嫌な体験は忘れたいというのは、これもまた私たちの常識の中に当然あるわけです。ほとんどの人にとって、忘れたい体験、あるいは自動的に閉ざされてしまって口に出せないような体験、そういう体験が被爆体験だったわけです。その一例として、今広島に被爆した建物はほとんど残っていません。それは戦後復興する時に、もちろんいくつかの建物は残っていたのですが、やはり原爆の記憶は消し去りたい、できれば自分たちにあの当時の事を思い起こさせるようなものは一切見たくないという思いが、被爆者に大変強かったからです。平和記念公園の原爆ドームが世界遺産として残されていますが、この原爆ドームを残すかどうかという議論をした時に、原爆の惨禍を思い起こさせるようなドームは是非壊してほしいという被爆者がたくさんいた事実があります。そのことからも、記憶を忘れたい、できれば記憶を元に戻してこんなことが起きなかった状態に戻りたい、もっとできることなら時計を逆に戻して、原爆にあわなかった自分をつくりあげたいという気持ちが、多くの被爆者の皆さんに確かにあります。しかし、そういう気持ちを乗り越えて、自分の体験を世界の人たちに話し続けてくれた被爆者がたくさんいます。最後まで口を閉ざしていた被爆者もまたたくさんいますが、自分の体験を話してくれた被爆者がいました。その結果として、長崎以降、原爆が使われることはなかった。その点が非常に重要だと思います。

三つ目の足跡は、先程申し上げた復讐の道を選ばずに、和解の道を選んだことです。その意味を最も端的に示しているのが、平和記念公園の中にある慰霊碑の文字です。そこには、「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」という言葉が書いてあります。この慰霊碑は、1952年のプレスコードが解禁になった年に完成しました。その当時、この言葉をめぐって非常に大きな論争が起きました。それは何故かというと、「過ちは繰返しませぬから」というのは主語がないので、主語は誰なのかということです。アメリカによって原爆の苦しみを味わった広島市民や被爆者たちが、何故謝らなければならないのか、アメリカに謝らせるべきではないか、「アメリカに過ちは繰り返させませんから」と書くのが正しいのではないかという議論が起きました。今でもその議論が復活することがあります。最終的にこの言葉の意味は、「我々人類はこの過ちは繰返しませぬから」と多くの被爆者と市民が解釈することで、この言葉は変えないことになりました。これはとても大事な視点だと思います。世界を敵対関係としてとらえない。敵がいて味方がいる、あるいは絶対に正しい味方がいて、それに賛成しない人は全部敵だということではなく、全世界を一つの単位として、まず全世界があって、全世界が協力して共通の未来をつくっていく。そのために第二次世界大戦も核兵器などの武器もそうですが、全世界が一つになって明るい未来をつくっていくうえでの決意を示した言葉だと解釈されています。

これは、慰霊碑に刻まれている言葉ですが、被爆者の皆さんはもっと簡単な言葉でこのことを表現しています。それは、「こんな思いは他の誰にもさせたくない」という言葉です。被爆者から被爆体験を聞いている時に、おそらく最も頻繁に使われる言葉の一つだと思います。こんな思いは私たちだけでたくさんだ、こんな経験は他の誰にもさせたくないとはっきりとおっしゃいます。大事なのは「他の誰にも」の中に、例えば原爆投下を決定した当時のトルーマン大統領も入っていますし、核兵器を開発した科学者たちも入っています。実際に核兵器を広島まで運んできて投下ボタンを押した軍人たちも含まれていることが非常に重要です。そこからは、報復をしようとか敵を討とうという考え方は出てこないことを是非頭においていただきたいと思います。

これが三つの足跡ですが、ここで第一の点と共通しているので申し上げておきたいのは、「他の誰にもこんな思いはさせたくない」、あるいは敵を討つことが目的ではなくて、世界を平和にすることが目的だという考えに至るまでの道筋は簡単ではなかったということです。当時死んでいった若者の中にも、例えば「兄さんアメリカをやっつけて、是非敵を討ってくれ」と言い残して死んでいった若者がたくさんいます。そういう思いは、被爆者の中にもありました。それを被爆者たちは、自分たちの日常生活の中で、あるいは先程申し上げたアメリカ、そしてアメリカ以外の世界中から様々な救いの手が差し伸べられた中で、「過ちは繰返しませぬから」という考え方に到達していったと考える方が自然だと思います。私たちは、そこに至る苦しみというか、大変さを同時に理解する必要があると思います。

これが簡単に言うと、非常に重要な被爆者のメッセージ、三つの足跡ですが、今私たち広島市が世界の大学にお願いしているのは、こうしたことを伝える広島・長崎講座を是非開設してほしいということです。

 その理由の一つは、被爆者が高齢化しているということです。被爆者の中には胎内被爆した人たちがいます。原爆が落ちたときに既にお母さんの胎内にいて、終戦後に産まれた子どもたちで、一番若い被爆者です。その被爆者でさえもう60歳になりますから、被爆者は高齢化しています。当時10歳位だった被爆者は70歳になっています。事実、被爆者の平均年齢は70歳を超えました。被爆者の中の最も雄弁な証言をしてくれる人たちもどんどん年老いてきています。世界中を飛び回って自分たちの体験を世界中の人に伝えるにはエネルギーがなくなったり、病気がちになったりして、その人たちに依存し続けることができない状況になっています。しかし、私たちは、広島・長崎からのメッセージは伝え続けなければならないと思っています。そのための一つの方法が、大学のレベルで被爆体験の意味をより広い枠組みの中で、あるいはより普遍的な枠組みの中で整理してもらい、若い人たちに理解してもらうことです。そして、皆さんがそれを理解したうえで、例えば学校の先生になる場合には、学校でさらに子どもたちに教えてもらう、あるいはジャーナリストとして活躍する際に、その理解を基にした被爆者のメッセージをより広く伝える仕事をしてもらう。あるいは、それ以外の場合でもこの体験を何かに活かしてもらう。そうしたことで、被爆者が果たしてきた役割を、今度は大学というより知的な整理が可能な場所で、皆さんに伝えていきたいというのが私たちの考え方です。なぜ大学かということについては、デジタルとアナログの違いだと考えていただくのが分かりやすいかもしれません。一番望ましいのは、被爆者の声を直接聞いていただくことがインパクトがあると思います。しかし、それが難しくなってきているため、そのメッセージをできるだけ正確に伝える必要があるのです。そして伝えるというのは、人が間に入ると、それはちょうどテレビの画面をアナログで録画すると録画するたびに音も画質も劣化するように、なかなかうまく伝わりません。デジタル方式だと何回録画しても音も画像も劣化しません。これからの多くの世代に、普遍的に広島と長崎のメッセージを伝えることが必要だと考えています。その最初の段階として、知的な整理、学問的な整理が必要だというのが私の考え方です。

 もう一つの理由は、これも私がアメリカで経験したことですが、アメリカの大学だけではなく世界の多くの大学で、ホロコースト、つまりナチスドイツ下におけるユダヤ人の体験は、学問的に整理されているのです。心理学的なアプローチもあり、社会学、政治学、哲学など様々な学問分野でユダヤ人のホロコースト体験は非常によく理解され、大学で正規の科目として教え続けられています。それと比べて広島や長崎の体験は、アメリカの大学では先程申し上げたような第二次世界大戦観もあって、ほとんど教えられていないというのが現状です。それをなんとか変えることが必要ですし、現にそれに応えて広島・長崎のメッセージの意味について教え始めてくれている大学がいくつかあります。ワシントンにあるアメリカン大学や、私がかつて教えていたボストンのタフツ大学でも教えてくれています。その他の大学でも広島・長崎講座を始めようとしてくれている大学があります。そういうところと協力しながら、これから先もっと広めたいと考えています。ヨーロッパではパリ政治学研究所という国立の教育機関が博士課程での開設を検討してくれています。ベルリン工科大学でも、今年の夏に講座を開設してくれることになっています。インドやパキスタンでも開設をお願いしてきましたので、いくつか実現するのではないかと思います。

アメリカでは、先ほど申し上げた「リメンバー・パールハーバー」を言われるのですが、それとのバランスをどう取りながら教えるのかということも非常に重要です。アジアでは、第二次世界大戦中の日本の戦争責任を言及しないで、アジアの学生たちに広島・長崎を教えることは難しいと思います。また、イスラエルとかパレスチナでは別の課題に遭遇しながら、広島・長崎のメッセージを伝えていかなければならないと思います。いくつか難しいことはありますが、大事なことは広島・長崎のメッセージが忘れられてしまうことを考えるのです。「忘れられた歴史は繰り返す」という言葉がありますが、それが現実のものになってしまう、その現実を作り出さないために、今私たちは世界の大学で被爆者のメッセージを伝え続けるということを一生懸命やっています。

 実は、私は来週からニューヨークとカナダに行きます。国連のNPT、核不拡散条約の再検討会議準備委員会が4月の後半にニューヨークの国連本部で開かれることになっています。その準備委員会でNGOのプレゼンテーションができる特別の時間帯があり、そこで平和市長会議という世界の579都市を代表して、核兵器を廃絶してほしいという世界の都市そして市長の声を届けるためです。

 昨年の4月にジュネーブでこの準備委員会が開かれた際にも、同じようなスピーチをしました。その中で、私が指摘したことは、NPT体制が世界的に崩れつつあることです。核不拡散条約の内容は、核拡散を防止するということだとお分かりいただけると思いますが、世界の条約の中でこの条約が非常に重要なのは、核兵器保有国に対して核軍縮をしなくてはいけないという義務を課している唯一の条約がこの核不拡散条約ということです。この条約が危機に瀕してしまうと、国際的な法的な枠組みの中で核兵器を持っている国々に対して、「あなた方は核兵器を無くす、あるいは減らすという努力をしなければいけません」という法的な縛りを行うメカニズムが全く無くなってしまうのです。この核不拡散条約は、この程度のものではだめだという不満が確かにありますが、同時に核兵器保有国に対する義務、それも緩い義務でしかないのですが、そういう条約はこれしかないという現実から始めると、この核不拡散条約をさらに強化する方向で努力することが一番自然だと思います。そのために、今私たちは努力をしているのです。

この核不拡散条約が現在のような非常に脆い、まさに崩壊寸前の状態になったことは非常に残念なことですが、2000年の再検討会議では大変素晴らしい成果が上がったと世界中の多くの人は思っていました。ところが、それからの3年間はほとんど何も起こらず、逆に崩壊の危機に瀕しているのが現状です。

その理由の一つは、アメリカの核政策です。アメリカは、使える核兵器を作ろうとしていますし、特定の状況にあれば核兵器を使ってもいいと言っています。三番目には、それまでは相手が核兵器を使わなければ自分たちは核兵器を使わないという暗黙の理解が世界にあったのですが、相手が核兵器を使わなくても自分たちは使うということをアメリカは言い始めています。核兵器の使用について、ほとんど無条件の状況ができてしまっています。もう一つの理由は、北朝鮮によるNPTの離脱がありますし、イスラエル、インド、パキスタンがまだNPTに参加していないこともあります。そういう状況でNPTが崩壊寸前にあることが非常に危険です。

しかし、このような状況に対する様々な努力が続いています。アメリカでは、使用可能な核兵器の研究を始める予算の審議の中で、エドワード・ケネディ上院議員が言った言葉が有名です。彼は、「あなた方は小型の核兵器を作ると言っているけれど、それは広島の半分の悲劇だったらいいのか、広島の4分の1の悲劇だったら、それは正当化されるのか」と言っています。彼は、非人間的な行為、非人道的な行為は、それが仮に半分でも4分の1でも変わらないことを訴えて、この予算に反対しました。こうした考え方を持っている人が、まだ世界には多くいることが大事だと思います。

 私たちが今、平和市長会議として目指しているのは、来年の4月にニューヨークで開かれるNPT再検討会議において、国連として正式に2020年を目標に核兵器廃絶プログラムを作ることを正式な決議として採択することです。そのために、世界の都市やNGOに働きかけています。今年の準備委員会には、世界の主要都市の市長10人位に来てもらえばいいと思っていましたが、今の段階で約30都市の市長、副市長、それ以外の代表がニューヨークに集まって、私たちが呼びかけている運動の出発点として声を上げたいと言ってきています。

 その後、8月6日と8月9日に世界の各都市で、核兵器の問題に改めて焦点を合わせて、世界を核兵器から守るための運動を起こしてもらい、被爆60周年に当たる2005年の4月に、百人の世界の市長と千人のNGO代表にニューヨークに集まってもらい、そこで2020年を目標にした核兵器廃絶プログラムを作るための決議につなげたいと考えています。

しかし、それがうまくいかない場合も当然あるので、その場合に私たちが考えているのはトラック2という取組みです。これは、対人地雷禁止条約ができた例を考えています。対人地雷禁止条約は、国連の枠組みの外で、いくつかの対人地雷禁止に積極的な国が中心になって、世界のNGOが後押しして、最終的に条約ができました。そうしたトラック2という手段を是非作り上げたいと考えていますが、まずは国連の枠組みの中で努力したいと考えています。

 このような取組みは、市長や都市としてはできますが、皆さんには何ができるのかということを話したいと思います。身近なところから是非始めていただきたいと思います。例えば、5月1日に、今回のNPT再検討会議準備委員会に集まるNGOの人たちを中心にして、ニューヨークでかなり大きな集会を予定しています。それに合わせて、皆さんが5月1日に小さくてもいいから核兵器廃絶のための行動を起こしてもらえれば、素晴らしいことだと思います。広島に行ってもらうことでもいいですし、あるいは核兵器の問題について勉強してもらうことでもいいと思います。何か行動を起こしてもらうことは可能なことだと思います。それから先ほど申し上げた8月6日そして8月9日には、世界中の色々な都市で同じような集会が開かれる予定ですから、皆さんに8月6日と8月9日の意味をもう一度考えていただくことも重要だと思います。

それから、皆さんに是非お勧めしたいのは、インターネットをうまく使っていただきたいということです。平和記念資料館ではバーチャル・ミュージアムをインターネット上で作っていますし、先ほど申し上げたアメリカン大学、マサチューセッツ工科大学、タフツ大学では、核兵器廃絶のための様々な行動を紹介するホームページを作っています。その中で核兵器の悲惨さや広島・長崎の体験についても十分学べるような工夫がされています。広島の平和記念資料館のホームページも同じようなところがありますから、そういうものを是非活用して情報を集めていただきたいと思います。

 私たちの世代は、核兵器廃絶のために一生懸命努力をしてきた、あるいは積極的な努力はしないまでも気持ちとしては、核兵器は絶対に無くならなければいけないということを信じていた世代です。最後に私が皆さんにもう一度申し上げたいのは、被爆者たちの思いを凝縮した言葉です。多くの被爆者が、世界の情勢を見て、「今にでもどこかでまた原爆が使われるのではないか」ということを大変心配しています。そのために自分たちも行動を起こしたいが、もう70歳を過ぎて実際に集まってみると、昔の仲間の半分、3分の1位しかその場にはいなかったという現実を、高齢化した被爆者は毎日感じています。そうした中で、昨年5月に広島で被爆者の集会が開かれました。その集会の中で一番強い言葉として出てきたのが、ブッシュ大統領に広島に来てほしいという言葉です。それを何とか実現したいと思って私たちも努力をしています。

 まだ、私たちに与えられた時間はあると思いますけど、被爆者の多くの皆さんが感じているのは、「自分たちも高齢化していて時間が無い、核兵器がことによったら使われるまでの時間もかつてと比べると随分短くなっている、そのことを何とか若い人たちに伝えたい」という思いが近頃大変強くなっています。私は、皆さんにそのことを申し上げたいので、映画の紹介をして、是非その映画を観てもらいたいということをお願いして、話を終わりたいと思います。

昨年、6月にグレゴリー・ペックという俳優が亡くなりました。「ローマの休日」は有名な映画ですから、皆さんもご覧になっているかもしれませんが、1962年に「アラバマ物語」でアカデミー賞を受賞した俳優です。アメリカの南部で冤罪になった黒人を助ける弁護士の話で、そういう役をすると大変うまい俳優でした。

彼が主演した映画の一つが、1959年に作られた「渚にて」“ON THE BEACH”という映画です。1959年の時点では未来である1964年の物語です。1964年に米ソ両国が冷戦下で核戦争に突入するのです。その結果、まず北半球が全滅し、残るのはオーストラリアだけというのが話の発端です。その北半球を覆っていた放射能が南半球を徐々に包み込んできて、やがてオーストラリアの人たちも全て死んで、地球が絶滅するのです。死の恐怖と戦いながら子どもを守る父親と母親、あるいは男女間の恋愛の話もあります。その中で、何度か救世軍の姿が映し出されています。救世軍はそこで「仮にあなた方が死んでも、人類が滅亡しても、今キリスト教に帰依すれば、あなたの魂は救われます」と言っています。この映画の最後のシーンは、その救世軍もいなくなり、全ての人類が滅亡した後のオーストラリアの街角です。そこでは、救世軍がかつて使っていた横断幕が風に揺られて、人一人いないオーストラリア、というより人一人いない地球の中で、その横断幕だけがはためいているのです。その横断幕に書かれている文字は、“There is still time, brother.”という言葉です。「兄弟よ、まだ時間は残っている」ということを、その映画の最後で言っています。それは、映画では人類は滅亡したけれども、まだ我々には時間が残されている。だから、我々が行動し、残された時間で地球の滅亡を救わなければいけないということを、この映画の監督スタンレー・クレーマーが言っています。

 私たちの世代は、そのメッセージを信じて一生懸命努力してきたつもりです。そのメッセージを皆さんの世代に是非引き継いでいただきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

トップへ戻る

PAGETOPへ